内と外。

 今日はT先生と院生の方々と飲み会。色んな歴史の話とか放送の話を聞かせてもらいました。飲みすぎて、具体的な知識のことはあまり、記憶に残っていません。ただ一つだけ、覚えていることは、何かを敵視しなければ、ある共同体はまとまらないのか?ということが飲み会の最後に話題になり、T先生をはじめ、その場にいる人全員が何も言えなかったことです。

 今、ホットな問題として、メディアにでっち上げられている「いじめ」(本当にホットかどうかは学校の先生に聞く方がいいかも)。誰かをいじめなければ、そのグループの権力を誇示できない。むしろ、グループの存在意義すらなくなるかもしれない。スポーツだってそう。戦う相手がいなきゃチームで一丸となって頑張る必要なんてない。企業だってそう。世界にその会社しかなければ、社員が力を合わせて必死こいて仕事する必要なんてない。世界に日本という国しかないと思っていたら、国民や上が、国力をアップさせようなどという発想にはならない。

 井の中の蛙は井の中にいるから安心できるのであって、井の外を知った瞬間、回りと自分を比較して、焦る。その焦りが、蛙を頑張らせる。成長した蛙は自分の居場所「自分らしさ」を発見して安心感を覚える。また、その「自分らしさ」に満足している瞬間に、また蛙は井の中。「自分らしさ」を捨て、外の世界と休まずコミュニケーションし続けることでしか、「自分らしさ」という井の中から出ることはできないし、それ以上の「自分らしさ」などない。「自分らしさ」を追求する蛙がいたとしたら、その蛙は不安でいっぱいだろう。そんな蛙は、本当の意味で強いが、明確な主義・主張の前には「弱い」。「自分らしさ」が形成途中であるため、明確な主張ができないから。そんなスタンスが日和見主義と称される時もある。

 括弧たるアイデンティティや哲学を持つということが、強い自分や組織を作るけど、それは逆に、異質なものへの攻撃や差別に繋がる。じゃあ差別をなくすためには何が必要なんだろう?自分の思想にこだわらず、不価値に留まって、どんな形でもいいから、相互理解、コミュニケーションするしかないのだろうか。たとえそれがケンカや争いというコミュニケーションの形であっても。全世界の人にそんな勇気と度量、そして優しさがあったら差別はいつかはなくなるのかな。

 個人ならいいけど、それで、共同体はまとまるのか?崩壊しないのか?もしかしたら、共同体も、まとまろうとするけれども、一つにカッチリまとまらないことが真理なのかもしれない。

色んな見方があると思います。なんだか理屈っぽい話になってしまいました。