表現=虚構

嘘をつきたくない人程
人にモノを伝えれない人だったのか。
そもそも伝える必要がなかったら
嘘をつく必要がないか。


下は月100冊の本を読む日本屈指の物書き
福田和也さんが『福田和也の文章教室』で書いていたもの

 私は、文章のカギは「虚構(うそ)のつき方」にあると思っています。「虚構」はともかく、そこに「うそ」というルビをつけることに抵抗を感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。「嘘をついてはいけない」と私たちは教えられてきました。
 けれども人にものごとを、ひいては真実を伝えたいと思えば、そこにはどうしても嘘=虚構が混じらざるをえません。
 伝達の達人とは、嘘のつき方のうまい人といえるかもしれません。あるところを強調したり、あるところを省いたりー稚拙な写真より、うまい似顔絵の方が、より真実に近い形で描かれた人物を端的にあらわせることにそれは似ています。


確かに。
自分が観たものゼンブを人に伝える事は不可能だ。

でも、その出来事で相手に自分が伝えたい事を
伝えることはできるかもれない。

ただ、それ以外の多くのものは省かれてしまう。
その中に相手にとって大事な事も含まれているかもしれない。
それでも省かれる。


映像も編集をしっかり取捨選択することで、
初め伝えたいコンセプトが明確になり
明確であればある程人に伝わる。


多分CMとかもそうだと思う。
「嘘はばれる」と伝説のCMプランナー杉山登志さんはいっていたが、
表現はそもそも嘘。


ただ、そういう意味の嘘ではない気はする。


虚構のつき方(表現の仕方)にも僕は2通りあると思う。
突き詰めて考え抜いた、自分が思う「真実」のある虚構。

もう一つは
自分が思う「真実とは限らない」虚構。


後者でも、もっともらしく「真実」として
受けてに伝達した経験をお持ちの方は
僕を含め世の中にたくさん
いる
よね?


ただ、両者とも受けてからの伝わり方によっては「真実」になりえるし、「嘘」にもなり得る。
伝える側が嘘か真か判断することではなくて、結局受け手が判断する事だよね。


嘘をつきたくないと
コミュニケーションができなくなるから、
嘘をつかなきゃしょうがないけど、
せめて
誠実な嘘をつける努力だけはしないとな。

受け手に嘘だとおもわれないように表現する。
でも「真実とは限らなかった」ときは、
そう言うほうがいいか。

でも社会はそれじゃやってけないってか。
真と伝わる技術も身につけないとあかんかな?

福田さんの本を読んで
このブログで表現(虚構)について
虚構してみた(笑


福田和也の「文章教室」

福田和也の「文章教室」